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有栖川宮と徳川慶喜と高松宮を結ぶ歴史の裏事情

経済ニュース
高松宮という名は香川県の高松とは関係ない。有栖川宮の屋敷があった、高松殿(姉屋小路通新町西入る)に由来し、もとをたどると、源左大臣高明(醍醐天皇皇子)の屋敷だった。
1913年に有栖川宮威仁親王が子の栽仁王に先立たれたまま亡くなられ、有栖川宮は断絶した。親王を兄のように慕っておられた大正天皇は、第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与え、有栖川宮の祭祀を受け継がせられた。また、財産も受け継がれたので、たいへん裕福な宮様だった。
高松宮宣仁親王(Wikipedia:編集部)
有栖川宮威仁親王の娘の子で、かつ、有栖川家出身の母を持つ徳川慶喜の孫である徳川喜久子と結婚した。また、徳川慶喜の母は有栖川宮家の出身だから、二重の縁で有栖川家につながる。「公武合体」などといわれたが、有栖川家の血が重視されただけだ。
そういうわけで、ほかの妃殿下に比べて気位は高く臆することなく自己主張された。宮様の死後に蔵から戦争中につけられた日記が発見されたときは、宮内庁の反対を押しのけて阿川弘之氏らの尽力もあって出版された。母を癌でなくされたこともあり癌撲滅に熱心だった。
また、宮家の財産は妃殿下の姉妹などに相続されたようだ。皇室の財産が血統を受け継がない民間人に引き継がれることもあるという珍しい例だ。
戦後、昭和天皇と戦争についての認識の違いが明らかになり、いまでも決着していない。1975年に殿下が雑誌『文藝春秋

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