幼い頃、私は友人からは「天才」と、大人たちからは「神童」と呼ばれていた。期待してくれた人たちには申し訳ないが、実際にはそんなことはなかったのだけど。失礼な言い方だが、彼ら彼女たちの語彙力からするとそうなる。「天才」と呼ばれた人は実は「秀才」だったりするし、たいていは「凡才」だ。
別にマウンティングしているわけでも自慢しているわけでもない。このエントリーを読んでいる人の中にも、幼い頃、若い頃、その知性や運動神経が過剰に評価された経験がそれなりにあることだろう。
凡才と天才ということについて、10月に入ってから考えていた。私は長いトンネルの中を歩いている。走ってはいない。ここ数年、まともに働いていない。勉強も足りない。育児と家事だけはどうやらしている。料理はうまくなった。ただ、自分を磨くということが足りない。労働時間も、努力も同世代の誰よりも足りないだろう。
約10年前、母にこんなことを言われた。「お前には才能がある。ただ、勉強が足りない」と。こんなことも言われた。ちょうど母が監訳を手掛けた本がリリースされたときのことだ。同じ時期に私も肝いりの本を出した。冷徹に彼女はこう言った。「お前の本は、どうせ1ヶ月で書店から消える。私たちの本はずっと残る」と。
ずっと才能の無駄遣いをして僕は生きている。いつ真面目に働くのか、勉強するのかという周囲の期待を裏切り続けて、気づけば45歳になってしま
努力する凡才と、苦悩する天才
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