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依頼心を無くす

『論語』の「陽貨第十七の十九」に、「予(われ)言うこと無からんと欲す…私はもう何も言いたくはない」という孔子の言に対し、高弟の子貢(しこう)が「子(し)如(も)し言わずんば、則(すなわ)ち小子(しょうし)何をか述べん…先生がもし何も言われなかったら、私たちは何を言い伝えていったらよいのでしょうか?」と応じる場面があります。
すると孔子は、「天何をか言うや。四時(しじ)行われ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天何をか言うや…天は何を語ろうか?四季はこれまで通り巡り、万物はこれまで通り成長する。天は何を語ろうか?」と答えるのです。孔子は自らが何かを言う・言わないといった類は関係なく、子貢自身で主体性を持って勉強し、そこから主体的に学んで行くことをもっと増やしなさいと述べているわけです。
上記は、お釈迦様が死ぬ間際に行われた愛弟子アーナンダとのやり取りに似通っていると思います。それは、「もし釈尊が亡くなられたら、いったい何を頼りに生きていけばよいのでしょう」とのアーナンダの問いに対し、お釈迦様が「これからは、みずからを島とし、法(ダルマ)を島とせよ」と語ったとされるものです。
此の島というのは、『不動のもののたとえであるが、漢訳経典では「灯明」と訳され、「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」の教えとして知られ』ています。お釈迦様は自らの言葉を全て頼りに生きて行くのではなく、アーナン

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