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劉暁波の死を悼むことの意味②

経済ニュース
7月12日、北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院で講演をした。今年の九州環境保護取材ツアーに続き、来年は汕頭大学の学生を引率し、北海道へのツアーを計画している。その事前調査を兼ねたものだ。
タイトルは「中国ではなぜColorを“顔色”と呼ぶ?――教室で体感した日中文化の“なぜ”」。人々は外の世界と向き合う際、偏見や先入見から逃れることはできない。ある特定の文化環境の中で育ち、外界との接し方を学ぶ以上、みながそれぞれの色眼鏡をかけている。独立した思考を身につけ、バランスの取れた世界観を持つことができるかどうか。それは、自分がどんな色をつけているのかを自覚することから始まる。
だからこそ、「なぜ」と問い続けることの意義がある。答えを出すことが目的ではない。問いを発することができるかどうかが重要だ。疑問が生じなければ問いは生まれない。相対的な発想がなければ、懐疑精神も育たない。タコツボ思考や井の中の蛙から脱却しなければならない。
講演の際、習近平体制に関する質問はあったが、危篤状態にあった劉暁波氏のことに関するものはなかった。ノーベル平和賞の受賞者とはいえ、中国の多くの若者は彼のことを深く理解する契機を欠いている。言論統制があるから無知なのではない。知ろうと思えばいろいろな手段を通じて知ることができる。だが、功利主義が蔓延する社会において、直接の利害がない問題にへの関心は

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