それは日の出前の早朝のことだった。陽が照り出して氷のステップが融けてしまわないうちに、一行は1万8000フィートの高峰を目ざして、険しいスローブを登り詰めなければならなかった。また、体力の消耗や高山病の危険についても気がかりだった。そこで、ともかく先を急がなければと思った。このようなきわどいチャンスを縫って、ヒマラヤの峰に挑む登山隊を、突如、人道上のジレンマが襲った。それは、意識を失いかけた裸同然のヒンズー聖者(sadhu)の姿を借りて、目の前に現れたのだった。
登山者はそれぞれ聖者に救いの手を差し延べたが、だれも聖者の身の安全を確かめようとはしなかった。聖者を安全な場所まで導くために、だれかが登山を中止すべきだったのか。そうすれば少しでも彼の役に立ったのだろうか。登山隊は責めを負うべきか。隊の一員として聖者を山の斜面に置きざりにして以来、筆者はこれらの問題について考え続けた。そして、ビジネスの世界においても、倫理上の意思決定を迫られる多くの類例があることを知った。
Source: ハーバード
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