戦国時代は、大名同士で息子と娘を娶(めあわ)せる政略結婚が多くあった。婚姻を結んで縁戚となるのは軍事同盟の一つの手段であり、娘を嫁がせることは実質的に「人質」を差し出すことを意味していた。徳川家康も戦国の世にならい、数多くの政略結婚を利用した。だが家康の手法は、かつて仕えた豊臣秀吉が定めた「大名同士の勝手な婚姻を禁ずる」との掟を無視した点に特徴がある。これが天下分け目の一戦といわれる関ヶ原の戦いを誘発したのだが、一体どういうことか。家康の「掟破りの婚姻戦略」をひもといていこう。
Source: ダイアモンドIT
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