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トンガで発生した大規模噴火を受け、1993年?94年の「平成の米騒動」を思い出す人が相次いでいる。中でも、この時期を知る人たちのトラウマになっているのが、タイ米と日本米とが混ざっている「ブレンド米」の存在である。この暴挙は、いったいどうやって生まれたのだったか。振り返ってみた。(文:昼間たかし)
コメが記録的な不作に
そもそものきっかけは1991年のフィリピン・ピナトゥボ火山・大噴火だった。1993年の日本が異常な冷夏となったのは、その影響と言われている。この年はいつまでたっても梅雨が明けず、真夏になっても気温は低いまま。日本列島各地で気温が例年に比べて2度?3度も下がり、稲の成長に深刻な悪影響をもたらした。
本来、稲穂が黄金色に輝く収穫時期にも、まだ田んぼは青々としたまま。平年を100とする作況指数は、全国平均で74。とりわけ東北地方では青森県28、岩手県30、宮城県37という大凶作になった。青森県内には米が一粒も収穫できない地域まであった。
凶作は国民の食卓を直撃した。まず東北の都市部でスーパー店頭から米が消えていった。農村部では米泥棒が頻発した。「日本人ならコメを食わねば」という意識が強かったこともあり、コメは今でいう転売ヤーの格好の標的になった。このころのコメ流通は政府がいったん買い上げ、卸すという仕組みで、政府買い入れ価格が1俵(60キロ)約1万6400円
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