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あおり運転に見る現代社会の鬱屈と暴力願望 — 角田 晶生

経済ニュース
宮崎容疑者のインスタグラムより:編集部
昨今の報道で世間の関心も高まりつつある「あおり運転」問題。
ドライブレコーダーの普及により、従来なら泣き寝入りさせられていたであろう被害者も、声を上げる証拠を得やすくなったのも一因であろう。
その映像を確認すると、よくもこんな暴挙に及んだものだ、と怒りを通り越して呆れすら感じてしまう。
ところが、多発する各種の事件に際して、加害者に同情的とまではいかないものの、あおり運転自体は否定しない意見が案外多く聞かれるのである。
「この容疑者はひどいけど、自分もたまにモタモタ走っている自動車が前に入ると、あおりたくなる気持ちは解る」
確かに、急いでいる時に追い越しができない道路をふさぐような低速で走っているドライバーに遭遇すると「先に行かせてくれ」と言いたくなる気持ちは解らないでもない。
しかし、ここで問題にしているのは、その攻撃的なネガティブ感情を行動(嫌がらせ、暴力など)に表わしてしまう短絡的な思考と粗暴さであり、何も内心に湧き起ってしまう煩悩まで非難するつもりも資格も、筆者にはない。
にも関わらず、実に少なからぬドライバーが遠回しにあおり運転を擁護したがるのは何故だろうか。まるでいじめ問題について「いじめられる側にも原因となる問題がある」という言説そのものである。
あおられた側に明白な悪意の証拠でもあるならともかく、ほとんどの場合は「あおられた(

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