>>>「終戦秘話①原爆投下の時間稼ぎだったポツダム宣言」はこちら
長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲(Wikipediaより:編集部)
話の後先が逆になるが、ここで米国側の宣言文案の策定過程と日本側の宣言受諾までの経過を少し詳細に追ってみたい。
開戦以前から日本の外交暗号、いわゆるパープル暗号の解読(解読文書はマジックと称された)に成功していた米国は、1941年春から始まった日米交渉における日本の方針は勿論、択捉島単冠湾から真珠湾へ向かう連合艦隊の航跡や、数時間手交が遅れたがために米国国民に「Remember Perl Haber」を植え付けた日本の最後通牒の内容までも事前に知っていたことが、公開された公文書によって今日明らかになっている。
1945年に入る頃には、欧州戦線だけでなく太平洋でもほぼ戦況が決していたので、米英ソ三国首脳は2月4日から11日までクリミア半島の避暑地ヤルタに会した。議題は主として最終盤を迎えていた対独戦で、ドイツ降伏までの最終計画や欧州の戦後体制、国連会議の日程などが話し合われた。加えて、ドイツ降伏後にソ連が日本に参戦する密約がなされたが、知る由もない日本はソ連の和平仲介に最後の望みを掛け、天皇親書を携えた近衛公の訪ソを、駐ソ大使佐藤尚武を通じて再三再四申し入れたのだった。
東郷外相と佐藤大使とのやり取りの暗号通信を傍受して、日本の様子を
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