毎年8月になると筆者は「御巣鷹山」と「東京裁判」を思い出す。前者は日本航空123便が御巣鷹山に墜落し、乗員乗客520名が犠牲になったいわゆる日航ジャンボ機墜落事故のことだが、なぜ「東京裁判」を一緒に思い出すのかといえばその理由はこうだ。
その晩、仕事を終えて同僚と食事をし、家族が帰省して灯の消えた大阪近郊の社宅に戻ったのは夜9時過ぎだった。テレビを点けて映し出された記録映画らしきモノクロ画面の下部に、次から次へと人名が流れている。暫くしてそれが墜落した飛行機の乗客名であり、映画は「東京裁判」と知れた。
際限なく人名が流れる画像が先の大戦の犠牲者と重なって否応なく脳裏に焼き付いた。筆者が東京裁判とその米国人弁護士の一人ベン・ブルース・ブレークニーに興味を持つようになったのはそんな経緯からだ。本稿では東京裁判でのブレークニーの弁論の一端を紹介してみたい。
法廷で弁論に立つブレイクニー(NHK「ドラマ東京裁判」より)
東京裁判とは、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが1946年1月19日に極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言書と共に発した極東軍事裁判所条例に基づいて、46年5月3日から48年11月12日まで423回にわたって市ヶ谷の旧陸軍省大講堂で開かれた極東国際軍事裁判の通称。
つまり東京裁判は連合国11カ国の協定で成立したのでなく、米国統合参謀本部の指示の下に連合国軍最高司令
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