文芸評論家の小川榮太郎氏は、『約束の日 安倍晋三試論』で安倍首相復活のイデオローグとして世に広く知られることになった。そのときは、保守派の論客によるヨイショ本という誤解もされたが、実際に安倍氏が大宰相としての評価を受けるようになったなかで読み返せば、小川氏の慧眼はただ者のそれではなかったことが分かるだろう。
その小川氏は、昨年は月刊『新潮45』廃刊のきかっけになる小論文を書いたり、朝日新聞社から5000万円という巨額損害賠償の訴えをされたことでも話題になった。
いずれも、表現に誤解を招くくらいのことはあったかもしれないが、伝統ある雑誌を廃刊にするような話でもなかった。大金持ちでその名声は在野の文芸評論家がちょっとやそっと気に入らない批判をしたからといってびくともしないのに朝日新聞がどうして、という印象だった。
そういう意味では、偽リベラル界隈にとってよほど怖れねばならない危険性がどこにあるのかこそ分析に値するのかもしれない。
しかし、本人は本職が文芸評論家であり、代表作は『小林秀雄の後の二十一章』だと強調する。しかも、大学で専門としたのは音楽美学なのだという。
その小川氏が書きたくて書いたのがこの『フルトヴェングラーとカラヤン クラシック音楽に未来はあるのか』(啓文社)という新著だ。こういう本になると、いくらベストセラー作家といえども、小川氏のファンとテーマのファンが一致する
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