変わるもの・変わらぬもの–ボストンの20年
あと数年で還暦である。10年一昔を6回過ごした。ただ年を取ると10年前などつい先日に感じる。慶應で大学院KMDを作って10年だが、まだ振り返るほどの蓄積ではない。ひとまとまりの記憶は20年がほどよい。それを、年を取ったという。その蓄積は特権でもある。
20年前に役所を辞め、ボストンに渡った。久しぶりに訪れてみると、随分変わっていた。いや、全く変わっていなかった。どちらもだ。随分変わるには時間が要る。全く変わっていないと感じるにも時間が要る。それを、年を取ったという。
当時、ネグロポンテさんが所長を張っていたMITメディアラボは、槇文彦さんが設計した建物が完成し拡張していた。ぼくが設立に奔走したMIT Okawa Centerも発足していた。出資者の大川功さんはもうこの世におらず、今メディアラボの所長は日本人が張っている。
いや。休日はラボで遊んでいた息子たちが平日に通っていた古い小学校のたたずまいは微動だにせず、時を止めている。似た赤レンガのハーバード大学も、その脇をたゆたうチャールズ川の輝きも、その向こうのボストンコモンズを走り回るリスたちも、止まったまま。
いや。MITでプロジェクトを共にしたチームが作ったプログラミング言語scratchは世界を席巻した。Napsterのトラフィックが問題となってMITで使用禁止令が出たネット環境は収まりを見せ、ようやくメディ
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