新年の最初のコラムはやはり「神」について考えてみた。
「わたしは、有って有る者」(旧約聖書出エジプト記第3章)といわれる「神」を人知で理解しようとすること自体、久しく“無謀な行為”と受け取られてきた。「神」と人間の間には超えてはならない壁があった。というより、「神」への畏敬が強く、人は「神」に近づき、話しかけることができなかった。
その「神」は2000年前、独り子イエスを降臨させた後は「愛の神」として前面に登場してきた。「神」と人間の壁が取り除かれ、単なる創造主と被創造物の関係ではなく、「親と子」の関係が次第に強調されていった。人格神の登場だ。
▲ミケランジェロの作品「アダムの創造」(ウィキぺディアから)
それでは「神」は如何なるお方だろうか。旧約聖書の「創世記」を読む限りでは、「神」は“自分の似姿”で人を創造された、すなわち、男と女を創造されたという。「神」は男性格と女性格を有していることになる。キリスト教の「神」は基本的には男性格要素が強いが、聖霊が降臨して女性神的な役割を果たすことで、キリスト教神学の欠損部分を補填してきた。
日本のカトリック作家・遠藤周作は「父の神」ではなく、日本の土壌に適した「母の神」を追及し、それをテーマとした作品を残していった。遠藤は西欧のキリスト教に忘れられがちな「女性神」を呼び起こした。弱さゆえに罪を繰り返す人間に「母の神」は共に涙を流
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