天保の飢饉の惨状を伝える渡辺崋山の「荒歳流民救恤図」(国立国会図書館所蔵より:編集部)
江戸時代を暗黒時代だとか北朝鮮に似ているというと、むきになって反論する人がいるが、そういう人は、明治維新による最大の成果の一つが餓死者がほとんど出なくなったことだということにどう答えるのかといったことを、『江戸時代の不都合すぎる真実 ~日本を三流にした徳川の過ち』(PHP文庫)で詳しく論じたので、そのエッセンスを紹介する。
日本の江戸時代は天明・天保・享保の飢饉などがあって、本当に何十万人もの「餓死者」が出ていた。天明の飢饉では、全国で30万から50万人の死者が出て、弘前藩では、人口の三分の一が餓死し、人口は半減した。地方分権が徹底していたので、特定の地方で食糧不足が起きると本当に死者が出た。
享保の飢饉での松山藩では、3月から気候不順が続き、麦は大不作で6月にはウンカが大発生し、7月には城下にも農民たちが救いを求めて流れ込んだが、追い払うだけだった。7月になって餓死者の死骸があふれるようになっても、藩士たちの救済だけで庶民にはなにもしなかった。備蓄食糧放出はしたが、足元を見て高値でのを行う始末で、野菜や蕎麦などの緊急作付けを「許す」だけだった。
年末になり、殿様もいる江戸藩邸に深刻さが伝わり、あわてて対策を打ったものの死者は3489人で、全国の餓死者の3割に当たり、人口の1割に当たる2万人の減
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