江沢民氏と習近平氏(Wikipedia:編集部)
1982年憲法が、「終身主席」の毛沢東に対する個人崇拝によって文化大革命の災難がもたらされた反省から、国家主席の任期を2期、10年に限定したことは述べた。文革期、国家主席だった劉少奇は、毛沢東の指導した大衆運動によってつるし上げられ、最後は河南省開封の銀行倉庫で、名前も伏せられたまま息を引き取った。私も訪問したことがあるが、開封には劉少奇の最期の場所が、ひっそりと記念館として保存されている。名目上の最高権力がこんな場所で・・・と胸を打たれた記憶がある。
こうした悲劇の後遺症から、文革中は国家主席が廃され、82年憲法によって復活した。だが、主席がかつて持っていた行政、軍事にわたる強大な権限は取り除かれ、全国人民代表大会の決定に基づき、法律を公布し、総理など指導者の人事を任命するほか、外交上、元首として接遇の任を負うなど形式的な存在に変わった。それは今回の修正案に至るまで変わっていない。
つまり、国家主席は象徴なのだ。
これだけをみても、「任期撤廃は毛沢東時代への逆行だ」との議論が成り立たないことは明らかだ。政治は、実体を持った権力の世界である。こうした認識を下敷きにして、82年憲法後の歩みを振り返ってみる。そうすることによって、「父親の習仲勲が採択したものを、息子の習近平が修正した」ことの本当の背景が浮かんでくる。
文革後の1970年
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