先日、疲れたのでベットに横になりながらラジオを聞いていた時、「良心の痛み」をテーマにさまざまな有識者に見解を聞いていた。「良心」という表現はキリスト教が出現する前からあった。ソクラテスも良心について言及していたという。興味を引いたのは、一人のユダヤ人の意見だ。アウシュヴィッツ強制収容所で多くのユダヤ人が犠牲となったが、生き残ったユダヤ人の中には一種の良心の痛みを感じながら、その後の人生を歩むケースが少なくないという。
▲ナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール(1995年3月、ウィーンのヴィーゼンタール事務所で撮影)
そのユダヤ人は、「犠牲となったユダヤ人たちはベストのユダヤ人だった。そうではなかったわれわれは生き延びた。彼らに対し一種の良心の呵責を感じる」という。参考までに説明すると、「犠牲となったユダヤ人は“神の供え物”となった。供え物は常に最高のものでなければならない」という信仰がその根底にある。
当方はナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィ―ゼンタール(1908~2005年)と数回、会見したが、彼に「戦争が終わって久しいが、なぜ今も逃亡したナチス幹部を追い続けるのか」と単刀直入に質問したことがあった。するとヴィーゼンタールは鋭い目をこちらに向け、「生きている人間が死んでいった人間の恨み、憎しみを許すとか、忘れるとか、言える資格や権利はない。『忘れる』こ
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