古代からの日本への大陸文明の流入について議論していると、韓国がまず輸入して、それを日本に輸出したという人が多い。いやそんなことはない、長江下流の江南地方から東シナ海を横切ってやってきたという人もいる。それから、江南地方から沖縄経由だという人もいる。
しかし、そんなものは、すべて古代の交通の実態を知らない人の戯言である。
東シナ海の風波は高い。しかも、風向きがかわる。だから、江南地方から沖縄、鹿児島、五島列島などに簡単に航海できるものではない。
鑑真和上が最終的に来日に成功したときは、江南地方から沖縄を経由しているが、これは難破した結果である。
沖縄と中国を航行するのは、幕末まで一貫して福建省ルートである。宮古や八重山経由、ないしは、近くに見ながら沖縄に入ってきた。
中国人の地理観として琉球は福建省の先にあった。浙江省や江蘇省から東シナ海を横切る航海は常に危険が高いものだったからで、福建省からだとそれほど危険ではなかった。それでも、航海に慣れていない中国人高官にとっては、比較的安全な福州航路ですら決死の思いで、海が荒れるとあらかじめ用意した棺桶に入って銀の釘を打ち付けるように命じて、その棺桶が漂着した地で釘の銀を売って葬ってもらう準備までしていたそうだ。
だから翁長知事が名誉市民になっているのも、台湾の対岸の福州市なのであって、上海方面との付き合いなどあったことがないのである。もちろ
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