「常識」というワナにはまらないために
中国の大学で教えるようになって、意識的に使わなくなった言葉がある。それは「常識」である。常識は特定の社会空間で生まれる閉じた概念だ。「日本の常識は世界の非常識」などと言われたりもする。背負った文化が違えば、それぞれの常識にもズレが生ずる。だから、常識を押し付けているような誤解を生まないよう、あえて使うのを避けている。人間の思考を支える重要な土台だと思うからこそ、そうしている。
「客観」も特別な事情がない限り使わない。「客観的な報道」などというものは存在しない。あるのは正しいか間違っているか、正当、公正であるかないかである。合理的な説明がつかないとき、人は相手の反論を封じ込めるため、しばしば「常識」や「客観」といった奥の手を使う誘惑にかられる。疑問を差し挟むことを拒否するのが常識や客観のあり方だ。これは、あきらめ、自信のなさ、逃避のあらわれであり、禁じ手にもなる。
それに代わってより多く使うようになったのは、良心、健全、普遍、価値観、信仰といった言葉だ。是非や善悪の結論よりも、物事を考え、判断するための基準こそが大切だと考える。しかも、我々はある基準をもとに考えるのではなく、先に結論や直感を得てから、どうしてその結論や直感に達したか、をさかのぼって自問することがある。言い訳や釈明、口実探しでもあるわけだが、そうした反復を通じ、基準も明確に意識されることになる。そのプロセスにおいて、
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