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8月15日が過ぎても逃れられない責任

毎年8月15日が過ぎると、世間の身替りの速さに白々しい気持ちになる。ちょうど地方支局にいた駆け出し記者1年目、昭和天皇が亡くなった時のことを思い出す。
あたかも全国民が悲しみに暮れるような記事を書いた、その翌日、産婦人科に行って、おめでたい平成第1号の赤ちゃんを取材した。当時はまだ原稿用紙に手書きだった。人の悲しみも喜びも、自分の指先手が魔法のように操っていた。内心では偽りの後ろめたさを感じながら、「仕事」という名目が自分の思考や感情を押しつぶした。記者という職業の歴史的な存在意味を理解せず、バブル社会と一線を画すことだけに矜持を保っていた。しょせんは功利主義の裏返しでしかなかった。未熟だったのだ。
ウソを書いたという実感はない。確かに取材相手は悲しみ、喜んでいた。だが、結局はみなが社会の空気に振動していただけなのだ。人びとは周到に慣らされ、素直に順応するよう仕向けられていた。私もまた、空気に流され、飲み込まれ、その一部になった。1日で社会が変わることなどあり得ないのだ。
かごの中に捕らわれた鳥の涙に同情を寄せていたら、いつの間にか、そのかごは自分を覆っていることに気付いた。同情していたのは鏡に映った自分だ。そんな感覚だった。
カントの『啓蒙とは何か』を読んだとき、まず思い浮かべたのはあの時の気分だ。
「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人

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