私にとっての読売新聞とは①
汕頭大学の春季学期が終わり、上海、北京を経由し、夏休みの一時帰国をした。この間、各地で、前川喜平・前文部科学事務次官に関する読売新聞の「出会い系バー」報道と、その批判に答えた社会部長名の釈明について意見を求められた。どこへ行っても、読売が袋叩きに遭っている。不買運動を口にする人もいる。擁護論はまったくと言ってよいほど聞かない。古巣の現状に対する私の感想について、周囲が関心を持つのは理解できるが、簡単にコメントできないのがもどかしい。
「早く読売を辞めておいて正解でしたね」と水を向けられる。そして、私に“反読売”のレッテルを貼り、読売バッシングに加わるよう求められる。だが私にはピンとこない。私は世論の大勢に乗じ、功利的に迎合する言論を好まない。誹謗中傷の中から社会が発展することはないからだ。
日本で語られる中国問題について言えば、その大半が時流に媚び、偏見を助長するものでしかないことを、たびたび指摘してきた。「独立記者」を自任するものとして、たとえ少数派であっても、社会と歴史に対する責任感を持ち、自由な言論を守る覚悟を抱き、正しいと信ずることを誠意をもって語るよう努めてきた。たとえ成果は不十分であっても。
そもそも、私の辞職と今回の読売による失態とは、何の直接的な関係もない。問われるたびに、私は自分が辞職した理由をかみ砕いて説明しなければならない。辞職理由はすでに十分、明らかにして
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