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劉暁波の死を悼むことの意味⑤

経済ニュース
劉暁波氏の死から10日間が過ぎた。中国にいなければ、この国の人々を知らなければ、私は新聞社を去る決断はしなかった。影響を受けた人物の一人が彼である。だから万感の思いがある。絶望の末に投身した屈原とも、田園に帰った陶淵明とも違う。あるがままの姿を貫いた稀有な知識人である。
彼の死に関する多くの文章に目を通したが、残念ながら、まったく心に響かない。彼の死に名を借りて、乏しい引き出しをひっくり返し、お決まりの記事を書いているに過ぎない。自分と向き合っていない文章には魂が宿らない。劉暁波氏は言葉ではなく、あるがままの姿によって信仰を語った稀有な知識人だ。信仰を抜きに、彼を理解することはできない。
いかに生きるかを問う哲学があり、いかに死ぬかを追求する道がある。悟りを開いた宗教家はいずれをも超越し、ただそこにあること、あるがままの姿を従容として受け入れる。仏教は不二(ふに)を説く。対立も差異も、敵味方もない境地だ。大きな愛、大悲をもってすれば、雑念は去り、静かな湖面に森が映し出されるように、あるがままの姿が目の前に現れる。すべては一つに融合される。「私に敵はいない」と言い残した劉暁波氏は、それを見たに違いない。
菩薩たちが不二を論じている。不二とは何か。知恵を誇る文殊は、「そんなことは言葉にできない、知りようもない」と断じる。だが、維摩は黙して語らない。「言葉にできない」ことさえも語らない。

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