6月29日、東京医科歯科大学で「がんプレシジョン医療」のシンポジウムがあった。そこで、このブログでのAMEDに対するコメントが話題になっていると聞いた。繰り返すが、審査員の質を確保することなく、競争的資金の健全性・公平性が保てるはずがない。申請書を読んでいないことが明らかな評価員のコメントが見過ごされていいはずがない。これは審査員の科学的な能力以前の話だ。外見的に競争的資金に見せても、単に結果的に誰も責任を問われない形骸的な審査になっては、日本の将来はない。
前回のブログに対して「公的資金とは名ばかりで、内々に採択演題は申請時に決まっているのだと思います。」「審査員なんて、いていないようなものなのだろうと思います。」「審査員の質もそうですが、AMEDの癒着構造の体質を改善しない限りはどうしようもない。」との感想が寄せられた。文部科学省事務系の前トップが「面従腹背」を座右の銘にしていると自慢げに語っていたが、表は競争を謳い、裏で八百長で決まっているのでは、若い人の活力が失われる。
ただし、私はすべてを競争的な資金にすることには、必ずしも賛成ではない。「国家戦略」に基づいて、責任者が見える形で、トップダウンで推進するプロジェクトがあるべきだと思っている。当然ながら、トップには権限が与えられるが、責任をとるだけの覚悟も必要だ。今のように、責任をあいまいにするような制度設計そのものが間
コメント