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忠臣蔵、浅野内匠頭の刀があと3センチ長かったら — 石川 了

経済ニュース
「この間の遺恨、覚えたるか」
「仮名手本忠臣蔵 三段目」歌川国芳画(Wikipediaより:編集部)
元禄14年3月14日江戸城殿中松の大廊下で、播磨赤穂藩の藩主である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に刃傷におよんだ場面で始まる「忠臣蔵」。刃傷におよんだ理由はさまざまあるが、少なくともこの刃傷におよんだ行動が突発的であったとことは確実である。最初から切り殺すつもりであるならば、殿中でやる必要はなかったし、殿中だったとしても短刀で仕留めるならば切らずに突くのが常道であるからだ。
そして、この浅野内匠頭の衝動的で無計画な行動は、その後「多くの悲惨」を生んだ。
1. 浅野内匠頭本人の悲惨
当の浅野内匠頭は、「即日切腹」となった。しかも、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破って庭先で切腹を命ぜられた。
2. 吉良上野介と家臣の悲惨
刃傷事件から1年8ヶ月後の元禄15年12月14日、赤穂浪士は吉良家に討ち入り、吉良上野介は殺される。討ち入りの際、赤穂浪士と戦った吉良家家臣15人が命を落とす。
「赤穂義士討入之図」山崎年信(二代)画(Wikipediaより:編集部)
3. 赤穂浪士の悲惨
赤穂藩士300数十人のうち、大石内蔵助に切腹の神文を提出した者は約60人。さらにそこから10数名が脱盟し、討ち入りに参加した者は47名だった。(寺坂吉右衛門を除く46名

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